2016年2月16日火曜日

クラスノヤルスク地方政府・医療・学術視察団を受け入れ

2015年11月1日から6日にかけて、クラスノヤルスクからの代表団6名を受け入れ、今回は愛知県がんセンターを始め県下の医療機関を中心に視察・懇談を行い、交流の新たな1ページを加えることになりました。

11月2日愛知県知事 表敬訪問













今回の訪問団は、本会が本年6月にクラスノヤルスクを訪れた際、「国際医療クラスター」創設に向け取り組んでいる行政府及び医療機関、大学から、愛知県の医療機関の視察や意見交換について積極的な申し入れがありましたので、これを受けて招聘いたしました。
お蔭さまで、受け入れを無事終え、これ迄とは異なる成果を上げることができましたのは、心よく理解・対応してくださった訪問機関の皆様、そして会役員・事務局の皆様の並々ならぬご尽力の賜物であり、改めて感謝申し上げます。
また、歓迎会には、在大阪ロシア連邦総領事館からユーリー・ステパノフ領事参事官にご臨席賜り、会員の皆様と共に温かな交流の場が持てましたことも感謝しております。

今回で5回目となったロシアからの代表団でありますが、初めて地方政府の代表と医療関係者を迎えました。そして、訪問先の多くもロシアからは初の受け入れとなりましたが、これを機に新たな成果を得ることもできました。
今回の貴重な実績と経験を活かして、今後のさらなる交流前進を図っていく必要があります。


滞在中の写真をご紹介します。
詳細は会報「今日はロシア」第41号をご覧ください。会報ご希望の方は会までご連絡ください。

中日新聞社表敬訪問
東海テレビ表敬訪問
愛知県議会議長表敬訪問
名古屋大学表敬訪問・懇談
愛知の会主催 歓迎会
名古屋城見学
愛知県立大学
名古屋市立西部医療センター
愛知県がんセンター

第19回ロシアンサロン開催のお知らせ(3/26開催)

みなさんこんにちは!
梅の花も咲き始め、いよいよ春の足音が聞こえてきました。
花粉症の方にはつらい季節ですね。実はロシアにも花粉症はあります。ただ日本のように杉やヒノキではなく、白樺やポプラ(トーポリ)が原因となることが多いようです。ロシアでも花粉症なんて、意外に感じますね。

★    ★    ★

第19回ロシアンサロンのお知らせです。

今回のサロンは、名古屋大学の留学生 チンギシュパエヴァ・アリヤさん(カザフスタン出身)にお話しをしていただきます。皆さんはカザフスタンについて、普段見聞きしないことが多いかと思います。カザフスタンの歴史や日本・ロシアとのつながり等、興味深いお話しが伺えると思います。
是非、お誘い合わせてご参加下さい

日 時:2016326()
1400~1600(受付1330~)

会 場:東生涯学習センター 第2集会室
     名古屋市東区葵1-3-21 
     地下鉄新栄下車1番出口徒歩5)
     ℡052-9324881

内 容:私の故郷―
「カザフスタンの歴史と日本との繋がり」(予定)
    
お 話:チンギシュパエヴァ・アリヤさん(カザフスタン出身)
     名古屋大学国際開発研究科国際コミュニケーション専攻
  の大学院生


参加費:会員500円、一般600

締 切:324日(木)までに会までご連絡下さい。

日本とロシアの友好親善を進める愛知の会
HPお問合せ→http://nichiroaichi.org/contact.html

TEL/FAX:052-411-9906

Email: nichiroaichinokai@yahoo.co.jp


2016年2月6日土曜日

第18回ロシアンサロンの報告です



С новым годом!

あけましておめでとうございます。
2016年は愛知の会にとって15周年の節目の年です。
少しずつ、着実に交流の種をまいていきたいと思っています。

昨年の10月4日に開催された第18回ロシアンサロンの報告を掲載いたします。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

テーマ「祖父母の足跡をたずねて~2015年夏、樺太~」

お話 松田 薫さん 行政書士、名古屋NGOセンター、
多文化共生リソースセンター東海会報編集委員。

松田さんに寄稿していただきました。
おばあさんの手記を手にする松田さん

私が祖父母の足跡を辿るようになったのは、2013年夏、ドミニカ共和国で日系移民の方々と出会ったことがきっかけでした。あらかじめ読んだ書籍からは「国に棄てられた民」という悲劇の物語一辺倒と捉えてしまっていましたが、ドミニカ人との温かな交流、面白おかしい日常などに触れ、教科書や書籍に残らない一人一人の人生にこそ、大切なことがあるのではないかと思ったのです。彼らの溢れる思いを聞くにつけ、自分の祖父母も海を越えて樺太へ渡った日本人だということが、急に現実味を帯びて浮かび上がってきました。奇しくも、祖母が他界したのはそのわずか4か月前。そんな折、祖母の遺品の中から樺太からの引揚げに関する手記が見つかりました。1990年に書かれたもので、45年もの時が経っているにも関わらず、昨日のことのようにこと細かに記されていました。ドミニカの皆さんのように伝えたかったことがあったに違いないと、直接聞けなかったことを悔やんでも悔やみきれない思いがしました。それから、祖父母の足跡を辿るようになりました。 

いざ祖父母の人生が知りたいと思っても、祖父母の樺太時代の友人や同じ町に暮らしていた方は、ほぼ他界されているというのが現状でした。今聞かなければ樺太の記憶が消えてしまうという危機感を抱き、2015年夏、じっくり北海道で引揚者の方を訪ね、サハリンの地を踏もうと決めました。

ご存知の通り、樺太は終戦と同時に戦場と化した地です。そんな中でも「国としてのソ連は恐ろしかったけれども、個人個人はいい人だった」と皆さん口を揃えて仰います。凄惨な体験をされたにも関わらず「個を見る姿勢」をお持ちだということに驚き、また今の私たちに大きな示唆を与えてくれると感じました。また、樺太引揚者の方々がお話して下さる中で、筆舌に尽くし難い記憶がよみがえり、涙が溢れ出してしまうこともありました。皆さんの辛い記憶を掘り起こすことに対する罪悪感や、こうすることが皆さんにとって良いことなのか、また祖父母が望むことなのか、という葛藤が常にありました。でも、「ソ連が侵攻してきて恐ろしい体験もしたし、引揚げてからも引揚者に対する暗黙の差別もあり、今まで口を閉ざしてきた。でもこうして孫世代の方が一生懸命に話を聞いてくれるなら、今は語り継いでいかなければいけないと思う。」「生まれ育った樺太を敗戦のために追われて故郷を失った気持ちは本人しか分からないと思っていたけれど、こうして祖父母の昔のことに思いを馳せてくれる方がいると思うと救われる気がする」というお言葉を頂き、安堵するとともに、葛藤を抱えながら重い口を開いて下さった皆さんの思いを重く受け止めました。

こうして2年間で少しずつかけらを繋ぎ合わせるように祖父母の人生がかたどられてきて、祖母が伝えたかったことが分かったような気がしました。祖母の手記や手紙には、親への恩義・尊敬、家族の大切さが繰り返し綴られています。祖母は、自分の引揚後も樺太に残された家族を探して、我が身を顧みず密航船で再び樺太へ渡ります。また祖母の手記には「二度と戦争はあってはいけません。シベリアで抑留された主人が気の毒です。引揚後は色々と病気が出て大変でした。4人の息子が主人の遺産と思っています」とあります。祖母は家族を大切にしなさいということ、また、その大切な家族を引き裂くような戦争はあってはならないということを伝えたかったのだと思います。
私は名古屋に来てから6年半、感情のすれ違いもあり物理的にも心理的にも家族とは距離を置いてきました。ただ、樺太というのはどうしようもなく家族のことです。いよいよ家族と向き合う時が来た、と感じました。家族だからこそのデリケートさがありましたが、その中で心が解け合っていくのを感じました。

私も、この祖父母の足跡を辿る旅を通して、家族の温かさや愛おしさをかみしめました。ビルマ難民、そして南米日系移民と出会ってなければ、自分の祖父母が樺太引揚者だということに目を向けることもありませんでした。そう思うと、遠回りしながらも、全てが繋がっていたように思うのです。祖母の思いを胸に、家族やお世話になっている方々を大切にして生きていきたいと思います。

末筆ながら、北海道やサハリンで思いを託して下さった方々の思いを伝える機会を、また祖父母の足跡を辿る旅の総括をする機会を下さった貴会の皆さまに、心より感謝申し上げます。